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天理教の教会の人々を見聞きして考えた、信仰と現実の姿

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天理教の教会で生まれ育った2世信者として、教会に集うさまざまな人々と接してきました。その中には印象的な人々や出来事がありました。今回は、私が出会った教会の人々について、感じたことを率直にお伝えします。


1. 信者にお供えをお願いする教会の娘

ひのきしんで出会った教会の娘さんとのやり取りが、今も印象に残っています。彼女は欲しいものがあると、信者さんに「今月は○○をお供えして」とお願いするのだそうです。それを信者さんたちは特に疑問も持たず、「はい」と受け入れるのだとか。彼女はそのことをごく普通のこととして話していました。

その姿を見て私は、「これは本当に神様へのお供えと言えるのだろうか」と感じました。神様に感謝を捧げるという行為が、生活必需品を得る手段になっているように思えたのです。もちろん、信者さんたちが自らの信仰心から喜んで行っているなら、それは尊いことかもしれません。しかし、その軽い口調や態度には、神様の思いがどこまで込められているのか疑問に思うところもありました。


2. 「我慢が多くて嫌だった」と話す教会の娘

「どうして私が教会に生まれたのか…。他の子たちのように自由に遊びたかった。」ある教会の娘さんが、そんな風に話してくれたことがありました。彼女は、教会の行事や手伝いで遊びの時間を奪われ、友達と遊ぶことが難しかったそうです。「天理教の子だね」と周りから言われることも、子ども心には負担だったのだとか。

彼女の話を聞きながら、「あらゆる状況でも喜びの心を見つける」という天理教の教えは、子どもにとってはなかなか高度なことかもしれないと感じました。心の成人を目指すことは信仰において重要なことですが、子どものうちにそれを理解し、実践するのは難しい面もあるでしょう。

ただ、一方で、同じ環境で育っても喜びを見つけている子どももいるのは事実です。教会の環境がすべて悪いわけではなく、受け取り方はその人それぞれだと思います。


3. 社会に適応できない教会の息子

ある教会の息子さんの話です。彼は教会の環境に囲まれて育ちましたが、外の世界との接点がほとんどないまま大人になりました。一度はアルバイトを経験したものの、会社での仕事にはなじめず、無断退職をしてしまったそうです。しばらくは音信不通になるほど病んでしまったという話も聞きました。

この背景には、「教会の中」と「外の社会」の文化や価値観の違いが大きく影響しているのではないかと感じました。教会内では「おやさまに喜ばれる心」を大切にする文化があり、競争や成果主義とは縁遠い世界です。一方、外の社会では、結果や効率が重視されることが多く、そのギャップに適応できず苦しむ人もいるようです。

さらに、教会内で育った人の中には、教会特有の「守られた環境」で育つことで、厳しい現実に触れる機会が少ない人もいます。それが「社会に触れたときの不安」や「自信のなさ」につながるケースもあるのかもしれません。このようなギャップは、教会の持つ独自性の表れでもありますが、それが人によっては負担になる場合もあると感じました。


4. 一般人よりどうかしていると感じた教会の人々

教会で過ごす中で、信者に対して独特の態度をとる人々を目にすることがありました。例えば、信者に嫉妬したり、気に入らないと怒ったりする教会の人々や、信者を下に見るような態度を取る教会長さんもいました。しかし、これらは教会全体の話ではなく、あくまで一部の人々の行動です。

このような行動が見られる背景には、信仰の名のもとに上下関係を強調する文化や、会長を「真に」するという言葉が誤解されている可能性もあるのではないかと感じました。「素直に」という教えは素晴らしいものですが、それを盲目的に従うことと混同してはいけないと思います。信者としても、教えを正しく理解し、賢く考えることが求められるのではないでしょうか。


5. 明るい教会長さん

もちろん、素晴らしい方々にも多く出会いました。中でも特に印象的だったのは、明るい教会長さんです。その方は「おやさまならどうするだろう?」と常に考えながら行動しており、周囲の人々に安心感を与えていました。信者さんたちがその教会に集まり、朝夕のおつとめや行事に積極的に参加しているのも、その方の人柄によるところが大きいと感じます。

彼女は、どんな状況でもおやさまへの感謝の心を忘れず、優しい言葉と行動で信者を支えていました。教会の雰囲気や信仰の伝わり方は、教会長さんの姿勢次第で大きく変わるのだと実感した出来事でした。


結論: 教会の中の多様な人々

教会は一つのコミュニティであり、そこに集まる人々も多様です。信仰を真摯に実践している人もいれば、葛藤や矛盾を抱えながら生きている人もいます。そして、信仰に対する向き合い方も千差万別です。

「教会の価値観に合わせて生きる」ことができる人もいれば、「外の社会」との間でギャップに苦しむ人もいます。どちらが正しいかという問題ではなく、それぞれが自分なりの信仰の形を見つけることが大切だと感じます。

2世として生きる中で、教会や信仰に対して感じたことは、喜びや学びだけではありませんでした。しかし、それでも信仰とは、自分自身と向き合い続けることだと思います。それぞれが自分にとっての「信仰の正解」を模索し続けることで、より深い理解と成長につながるのではないでしょうか。